創業から

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創業者「藤本 幸」と当時の工場の様子創業者「藤本 幸」と当時の工場の様子

創業に至るまで 昭和2年、兵庫県宍粟郡(現・宍粟市)に生まれた創業者「藤本 幸(ふじもとみゆき)」は、尋常小学校を卒業後、神戸の軍需工場で働いていましたが、同16年、大東亜戦争が勃発。志願して、海軍飛行予科練生として鹿児島県第二鹿屋海軍航空隊に入隊しました。その後、海軍飛行兵長となりましたが、同20年、終戦となり故郷に帰り、村役場に就職しました。
その後、同28年、幸子(さちこ)と結婚し、岡山県邑久郡(現・瀬戸内市)に居を移しました。妻幸子は、邑久高等女学校を卒業後、幼稚園に勤務していましたが、結婚を機に退職し、2人でこんにゃくの製造販売を始めました。

二人は原料を吟味し、“おいしいこんにゃくを創る”ことによろこびを感じつつ、仕事に励んでいました。自分には定年がないというのが藤本幸の心からの自慢で、こんにゃくづくりの他に趣味などは持たない人生でした。
幸子も又たぐいまれな能力でこんにゃくづくりに励み、手際よく工場の運営を支えました。二人とも長靴を履いてこんにゃくづくりにいそしんでいる姿しか思い浮かびません。

二人はこんにゃく造りに人一倍熱意を持ち、品質にこだわり抜き、一人でも多くのひとに美味しいこんにゃくを食べてほしいとの思いでこんにゃくを造り続けました。

こんにゃく造り

素人の二人がはじめたこんにゃく造りは、最初は、こんにゃくがなかなか固まらず、作っては捨て、作っては捨ての繰り返しでした。
また、やっとうまく作れてお店に買ってもらおうと頼んでも、既に他のこんにゃく屋の製品を販売していると言って相手にされないことばかりでした。それでも粘り強く買ってもらえるお店を徐々に増やしてゆき、少しずつ忙しくなってきました。 当時、こんにゃくの製造はすべて手造りだったので、お正月前などは朝から夜遅くまで休まず働いていました。冬場の水は手が切れるほど冷たく、さらにこんにゃくのアクで手にあかぎれができました。お店に配達するのも、木製のりんご箱の内側にトタンを張った入れ物にこんにゃくをいっぱい入れて運びました。60Kg位はありましたが、藤本幸は一人でダットサンに積んだり降ろしたりしたものでした。

ダットサンの前で記念撮影

ダットサンの前で記念撮影

こんにゃくの
消費拡大活動に貢献

創業者の藤本幸は岡山県蒟蒻工業協同組合会長、全こん連理事長、日本こんにゃく協会の理事、を務め、時代の流れによるこんにゃくの消費量の低下を少しでも食い止めようと奔走し、5月29日を「こんにゃくの日」に制定するなど、理事として貢献しました。
こんにゃくの消費拡大活動の一環として全国の小学校へこんにゃく芋を植えた植木鉢の配布を行なったり、こんにゃく料理の講習会を開くなどの催しを行いました。
また、組合活動がきっかけとなり1991~1993年の2年間、岡山放送の料理番組を藤本恵子が担当をし、こんにゃくの簡単料理を紹介してきました。
こんにゃくを中心に家庭で手軽にできる料理を紹介することは、後にこんにゃくメーカーとして様々な顧客と時代に合ったメニュー提案をしていく素地となっています。

そして今

その後、平成4年にこんにゃくの製造工場新築移転、
社名を株式会社みゆきやフジモトに変更し、現在に至っています。

当時のこんにゃくの型枠

当時のこんにゃくの型枠

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